ネマガリタケに花が咲く 神室連峰 2019/5/11

諸説ありますが、竹の花は120年に一度花をつけて枯れると言われています。ただし、種類によって120年より短い期間で花をつけた記録があるんだそうで、例えば孟宗竹が67年で花をつけたことが2例、確かめられているらしいです。ま、これだけ孟宗竹林があるのにたった2例とは・・・要するによくわかってないのも事実です。理由は2つです。あまりにも観察に要する期間が長すぎるためと、もう一つは竹には年輪という歳を特定する手がかりがないためです。

2019年5月11日に神室連峰に入山しました。山形県の最上地域は一年で最も気持ちの良い季節を迎え、私は足取りも軽く、神室の峰々や花々を愛でていました。山麓の沢筋ではアイコやシドケ、林の中ではコシアブラなどの山菜も目に入りましたが筍にはまだ早いので、あまり笹藪に注意はしていませんでした。というか、神室連峰は全山ネマガリタケだらけなんですね。山麓から稜線、森林限界を超えても関係なく生えてますので気に留めません。


樹林帯ではカタクリやショウジョウバカマ。稜線まで登ったら、遠くの山波や足下のシャクナゲ、山桜をじっくり眺めてましたが、ネマガリタケはただの背景でした。極めて強い生命力があり、すぐに登山道を塞ぐ厄介者でもあります。

ちっとも珍しくないネマガリタケが脚光を浴びるとしたら、それはやはり「花をつけたときだよな。」と思いませんか。しかも、竹林は独立した木々の集合体ではなく、地下茎でつながる一個体です。花を咲かせて枯死となるとそれは竹林全体です。尚更注目に値します。中には「花が咲いたね。良かったね。」とはならないためか「不吉だ。」という人もいるようです。後で聞いたのですが、2019年はあちこちで竹の花が咲いたような噂は耳にしました。それでもって、その後の世界の不幸に結びつけるような無謀な展開もありましたが、私は好みません。

それより、ネマガリタケの寿命について考えてみましょう。長命な生き物と短命な生き物がいますよね。虫や草本なんかは1年未満も珍しくないです。鳥や獣はそれより長くなりますが、人間には及びません。その人間より長命なのが120年のネマガリタケです。巨樹や微生物を除いて、これだけ繁栄してしかも長命なバンブー族は地球の成功者だよな。「おめでとう。」と、声をかけようとしたのでした。しかし、成功とか幸福とかは「長寿だけでは決められないよな。」という考えが頭をよぎりました。120年目に必ず死ぬとわかってたらどんな気分なのか。

昆虫や魚などにははじめから寿命が決まっている種があります。こうした生き物を観察すると、人生の各ステージでやることがはっきりしていて、彼らは寸分の迷いもなく実行しています。食べて成長して一騒ぎして交尾して死ぬ。神様に寿命を決められた彼らの生き様は潔く、洗練されています。寿命の決まっている生き物をよく見ると親を知らずに生まれ、子を見ずに死んでいます。すごいですよね。いなく粛々と生きます。鮭は4年たったら旅を終え、故郷に戻り、卵を産んで死にます。はらぺこあおむしはものすごい食欲に突き動かされ食べて食べてますが浪費ではなく、迷いなく感動的に蝶になり、きっと死ぬのでしょう。18年ゼミは昆虫の中では長命です。土の中に隠れて見えないので真実はわからないのですが、死ぬ日が決まってる彼らにも何かしらの確信はあるでしょう。期限の決まった一生、それが良いか悪いかではなく、迷う私へのメッセージになるような気がします。

さて、ネマガリタケは120年と寿命が決まっています。ということは実を結ぶまでの長い年月で何をなすべきかもきっと決まっているのではないかとの仮説が成り立ちます。でなければ、あれだけのテリトリーを維持し繁栄することはできないような気がします。120年は長いですから、自ら環境に適応していく必要があります。さらに、120年に一度の交配では進化スピードが極端にスローになると思われますから、次世代のための環境を保全する努めもあるでしょう。

翻って、命日がわからないヒトです。己が人生を振り返ると各ステージにおいて、迷ってばかり、怠惰な行動でばかりで、子供の頃に思い描いた未来には到達してません。心を病み依存の時代もありました。終わりが決まってないことが理由かもしれません。

時間は無限にあるが潜在意識なのでので「いつかやろう。」と口にしたことは永久に出来ません。私の父はこの世を去る間際になって言いました。「もっと早く、家の商売をやめたかった。行きたかったところがある。聞いて欲しいことがある。」などと私に語ったときは時すでに遅し。それを目の当たりにしていた私自身でさえ「いつかやろう。」を何万遍も繰り返してきました。そこにネマガリタケは「必ず終わりが来るよ。」と語りかけます。

入山前日も自分に直接関係のないNHKをだらだらと見て批評家になっていたました。「ああ、なんにもなんね。そろそろ自分のゴールを考えた行動をとりたい。」と、まあ、そう思うようになりました。そうです。「父の享年67歳」をまずは自分にも明確に想定します。(孟宗竹の寿命かな?)

神室山から降りると、自分の生活を若干変更しました。時間の使い方です。家のテレビは天気を聞くだけで十分としました。車内でラジオはつけないようにしました。必要な情報は自分で探すことにして、勝手に入り込まないようにしました。処理能力オーバーを認めます。次に、自分の時給を1万円だと思うようにしました。思うだけです。自分の行動の価値を上げる認識が必要でした。1万円に見合った行動をするのです。まだ、家族も同僚も気づいてません。そりゃそうだ。相変わらず山遊び三昧じゃねえか。







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